【妄想】京成電鉄「合羽橋駅」と都心ルート

妄想です。裏付けをとろうとすると即座に否定できるかもしれない妄想です。
その妄想の出発点はこれです。







食品サンプルなどで外国人を含む観光客にも人気がある浅草合羽橋。実態は特に飲食業を営む人がワンストップですべてをそろえることができる道具街です。
鍋、食器、什器、制服、看板などなど思いつく限りのあらゆるものがそろっていて一部食品材料まで売ってます。
その合羽橋に「京成」を名前に持つビルが思わせぶりな配置で2棟建っています。


そもそもこの「京成」があの「京成」なのかさえ裏付けを取っていません。それでも妄想させるには十分です。


何度も書いている逸話ですが、京成と東武はかつて都心進出を目指して争いました。最終的に東武は浅草に乗り入れ、京成は今のつくばエクスプレスと似た経路を想定していた筑波高速度電気鉄道という鉄道会社の免許のうち都心部を買い取ってルートを変えた上で上野に進出しました。
そこに至るまでは数々の試行錯誤があり、その残骸、といったら失礼ですが東武亀戸線が残っていたりします。


廃止されてしまいましたが京成も向島のあたりに支線を持っていました。(京成白鬚線)
長らく謎だったのは、この向島からの支線をどうやって都心に持って行こうとしていたのかということです。Wikipediaに書いてあるように王電に接続すればそれで本当に満足だったのかという疑問が残ります。王電って当時は郊外電車扱いですからね。
もしかすると冒頭のビルがその答えなのかなと妄想した次第です。
当時はたぶん今以上に繁華街だった浅草の近傍を通ることからおそらくは地下を掘り進めなければならなかったのでしょう。隅田川を橋で渡り地下に潜って上野あたりを目指すルートを想定していたのではないかなと想像したのです。


そしてさらに妄想は膨らみます。


地下鉄銀座線を建設したのは私企業である「東京地下鉄道」です。社長は早川徳次。その早川は東武根津嘉一郎とも親交がありました。
ということは、銀座線建設の裏には東武の意向があって、京成の都心進出ルートをつぶすことが動機の一つだった可能性があるのではないかと妄想しました。




さて、この妄想ですが簡単につぶすことができます。
一つは建設時期。京成の上野開業と銀座線の浅草上野間開業時期の問題です。

妄想は潰えませんでした。むしろ補強されたようにすら思えるタイミングです。
もう一つのつぶす方法は調べないとわからないので方法を書くだけにします。

  • 冒頭のビルの土地所有者が本当に京成電鉄、あるいは関係会社なのか
  • もし所有者が京成関係だった場合土地の購入はいつだったのか

もしもこれが1920年代だったりすると妄想は広がりすぎて止めることができなくなります。




仮にこの妄想が正解だったとしても合羽橋の駅はターミナルではなくて中間駅だったでしょう。それに当時の規格でつくると今の銀座線と大差なかったでしょうから、廃止された京成の博物館動物園駅のような末路をたどることになったかもしれません。結局通勤客をさばくためには現状のように押上線を活用するしかなかったのかなとも思います。
それにしても、この2棟のビル、妄想をそそりまくりますね。敷地の形といい場所といい、気づいたときにはニヤニヤが止まりませんでした。