読書感想文 筒井康隆著『時をかける少女』ふたたび……



この小説の感想文をこの日記に書くのは2度目です。しかし1度目を書いた頃には、ここに「読書感想文」を書きためる事になるとは思ってなかったので、夏休みの宿題の参考になるような書き方はしていませんでした。
しかし、『時をかける少女』という作品は、発表から40年以上経った今でも読者がいて、しかも、この作品を題材にして読書感想文を書こうとしている人が多いということを今の私は知っています。それこそタイムリープして当時の自分に教えてあげたいくらいです(笑)。


あの時書いてしまった短い感想はそれはそれとしてやっぱり私自身の感想なんですよね。取り消す事はできない。なので、その記事を上書きするのではなく、今日は今の気分で『時をかける少女』の読書感想文を書いてみようと思います。





短い作品で、かつ登場人物も場面もそれほど多いわけでもなく、さらに、作者である筒井康隆独特のぶっきらぼうとも言える文体(ソースは私の感覚)もあいまって非常に読みやすい小説です。
今ではおそらく使う事が許されない表現も出てきますが、それも含めて、作品が発表された当時のSF小説の雰囲気を味わう事ができます。
実は私が読んだのは角川文庫版で、この記事でリンクを貼ったのは角川つばさ文庫版です。
もしかしたら内容に違いがあるかなと思ったのですが、作者が筒井康隆という事を考えれば、文章はそのままなのではなかろうかと推測しています。気になる人は「筒井康隆 断筆宣言」で検索してくればなにかしら情報が出てくると思いますのでここではこれ以上触れません。


芳山和子という中学三年生の女の子がふとしたきっかけで、テレポーテーションとタイムリープという2つの不思議な力を手に入れてしまいます。
それは彼女が望んで手に入れた力ではなく、そもそも当初自分の身に何が起きたのかわからず混乱してしまいます。
しかし、幸いな事に彼女にはそんな非現実的な事でも相談できる相手がいた。それが深町一夫、朝倉吾郎です。
和子や一夫と吾郎が経験した不思議なできごとから、和子に不思議な能力が備わってしまった事を確信した3人は、彼ら彼女らにとって信頼できる人物である、担任で理科を担当している福島先生に相談します。
福島先生の提案で、和子は超能力が備わるきっかけとなった場面、理科教室にテレポーテーション&タイムリープで戻る事にします。そこでラベンダーの香りがする薬品を調合していた謎の人物と会う事ができれば、彼女に備わってしまった不本意な力を無効化する事ができるのではないか、という仮説を立てたからです。
でも、和子はこの時自分の力で時間を遡り、かつ瞬間移動する事はできません。そこで、福島先生は一芝居?打って彼女を覚醒させます。
今までは想像もしなかった状況でいろいろと苦労をしながら和子は目的の時間と場所に到達します。そしてそこで彼女が見た物は……。




というのがあらすじです。念のため言っておきますが私はあらすじ書くのがとても苦手なのであらすじが欲しい人は別のサイトに行った方が良いと思います……。




さて、ここから感想です。もう一度読んでみて思ったんですが、案外と論理的に破綻しないように作られている設定だなぁと思いました。
設定上過去に戻ったときに問題となるのは、同じ時間帯の同じ場所に同一人物が2人存在するというパラドックスですが、この小説ではその場合、タイムリープしていない個体が消えるという仕組みになっています。また、この文章の上の方でも書きましたが、タイムリープとテレポーテーションを別の能力として区別しているところも面白いです。実際にこの作品だけではその2つは分けられない組み合わせになっていますが作者のこだわりが伺えます。


この先の感想にはいわゆるネタバレを含みますが、おそらくはこの記事を読む人でそれを知らない人は数少ないと思います……。


この小説で描かれている未来、それは西暦2660年代と設定されていますが、決して明るい未来ではありません。原子力の平和利用が確立した2620年頃(この小説の設定ではそこまで時間がかかることになっています)、科学は大きく発展していますが、その社会で生活するのに必要な知識を得るために、人生の大半をかけて学校で勉強をしなければいけない状況に追い込まれます。その問題を解決するために睡眠学習が使われ、子供でも1900年代や2000年代で生活する大人よりも遙かに大量の知識を備えています。しかも、その中でも優秀な「彼」ですから……。
決して輝かしい未来とは思えないんですよね。実際、「彼」もこの時代に暮らしたいと臭わせる発言をしています。
この小説が発表された1960年代後半、昭和40年代は万博があったり新幹線ができたり家電が普及したり収入が増えたりと日本がいけいけどんどんだった高度経済成長期です。そんな時代に『時をかける少女』のような未来観を描いていたんですよね。
調べてみたら、『鉄腕アトム』が発表されたのは1950年代(昭和20年代)で設定された未来は2000年代、『ドラえもん』は発表が1970年代(昭和40年代)で、ドラえもんが作られたのは22世紀(2112年)です。
設定が違うとは言え、『時をかける少女』という作品はひどく遠い未来を設定として用意していたんですね。
いずれにしろ、『時をかける少女』で描かれている決して明るいとはいえない世界観は当時は斬新、あるいは受け入れがたいものであったのかもしれません。
その設定が、この作品が発表から40年経った今も生き残っている理由の一つなのかも知れません。
今日読み返してみて驚きましたから……。




そして、もう一つ、この作品がおそらく今後も読み継がれるであろう理由が私にはわかります。


それは、余韻です。


未来から来た「彼」の記憶は和子から消えました。それでもほのかに残るラベンダーの香りという思い出。
「彼」と「和子」との再会を予感させる伏線は張られていますがそれは回収されずこの物語は終幕を向かえます。


この先、読者はいかようにも想像できてしまうんですよね。
もしかしたら和子はこの先何らかの理由で記憶を取り戻すのではなかろうかとか、王道的な展開で未来から「彼」が和子を迎えに来るのでは無かろうかとか、その時もう一人の男の子との間ですったもんだがあるのではなかろうかとか(笑)。
この曖昧さがあるからこそ、読者はもちろん、この作品を元にした2次創作、商業作品同人作品問わずです、の作者も様々なインスピレーションを得る事ができるのではないでしょうか?






ここまでのこの感想文には書かないようにしてきましたが、私は筒井康隆作品に頭をやられてしまっています。高校生の時全集を読んでしまって壊れました。その筒井康隆作品の中では『時をかける少女』という作品は超のつく異色作です。この小説を入り口に筒井康隆作品を読もうと思う人がいるのなら全力で止めにかかります。絶対やめたほうがいい。
それでももちろん筒井作品らしさみたいなものは感じます。感想文で指摘した文体や「超能力」の定義に関する無駄としか思えない厳格さ。悲観的な未来観。そして、もったいないとも思える作品の短さ。それらはやっぱり筒井康隆の小説なのかなぁと思えます。
しかし、やっぱり不思議なんですよね。もしかすると『時をかける少女』って筒井康隆という小説家の代表作として扱われるんだろうなぁと。書いた本人も40年後にも生き残る作品になるとは思っていなかったかも知れませんよね。超異色作が代表作というのはなんだか納得いきません(笑)。


でもそれはそれで筒井さんらしいのかもしれませんね。
脈絡無く感じる人もいると思いますが、私には妙にしっくり来るので、深町一夫の言葉を借りてこの感想文を終えましょう。


「無理ないさ。まるでSFだものな」