読書感想文 『涼宮ハルヒの憂鬱』その危険な世界観
- 作者: 谷川流,いとうのいぢ
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2003/06/01
- メディア: 文庫
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二十世紀末から二十一世紀の日本において「ライトノベル」というジャンルに分類される小説があるらしいことを知ったのは、つい最近のことである。Wikipediaによると
漫画・アニメ風のイラストを使用した娯楽小説
とのことだが、他のジャンル分け同様おそらくその境界は分類する人の主観にも依存していて曖昧なのであろう。
俺がその言葉から感じる感覚を頼りにすると、軽く読める小説という意味になる。まぁそのまんまだ。
だから、前述のWikipediaに記載されている
自らは絶対に「ライトノベル」と呼ばない出版社、作家などはいまだに多い
という状況は理解できる。自分が書いた物、自分が出版した物を軽く見られるのはあまりいい気持ちはしないんだろうな。
最近*1俺が読んだ本の中でも、俺の主観ではライトノベルに分類できる本があった。「ダ・ヴィンチ・コード」がそれだ。異論は多数あるであろうことはわかってはいるが、何せ俺がそう思ってしまったのでしょうがない。
俺が持つ、きわめて日本人的と思われる、神道的仏教的いやいや無宗教的といった方がよい宗教観でダ・ヴィンチ・コードを読むと、長さの割に簡単に読める娯楽小説という意味でまさにライトノベルである。漫画・アニメ風のイラストがついているかついていないかなんてことは小説を読む上では別にたいした問題ではないんじゃないかとかえらそーなことを考えているわけである*2。
おそらく俺は二十世紀終盤で経験した中高生の頃に、今で言うライトノベルに分類される小説は読んでいるはずなのだが、たとえばダーティーペアシリーズなんて今で言うともろにライトノベルなんじゃねーかなと思うわけであるが、ライトノベルというジャンルに分類できる小説があることを知ってから、どうやらこれがライトノベルというジャンルに分類できる小説らしいと意識して読んだ初めての作品。
それが『涼宮ハルヒの憂鬱』である。
さて、本来ならばここで『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品のあらすじ、というか概要を説明する必要があるのだけれど、発表されて時間も経っているしほぼ原作通りにアニメ化までされているので割愛させていただく*3。
おそらくこの文章を読む人は、すでにこの作品について俺よりももっと深く知っている人であろうという前提もある。
しかしながら、念のため書いておこう。ここから先、この小説の根本的な部分のネタバレをしないと書き進めることができない。この小説をまだ読んでいなくて、かつこの先読む予定があり、かつネタバレを好まない人はこの先は読まないで欲しい。前の放送では見損ねたテレビアニメの再放送を毎週楽しみに見る予定の人も同様である。
さて、表題の通り俺はこの小説を読んで「危険性」を感じ取ったわけであるが、その危険性はこの小説のあらすじとも小説では初めて見たSQLもどきの文字列が書いてあることにも弓状ではなく弧状だろう思ったらどうやらそういう言い方もあるらしいと思ったことともまるで関係ない話である。危険性を語るにはどうしてもこの小説の基本設定について考えなければならない。
その前にテレビアニメの話をちょいとしてみるか。
大きな声では言えない某サイトでテレビアニメを一通り見てみたわけだ*4。放映の順番通り。とにかく第一話はわけわからん。そもそも、テレビアニメは『涼宮ハルヒの憂鬱』の範囲内ではなく、その続編も含んだ形で構成されているようなので当然といえば当然なんだが、にしても、ああいう話を第一話に持ってくるってのはいかがなものか。
テレビアニメ第一話は、涼宮ハルヒとその仲間たち要はSOS団が文化祭で上映するために撮った映画である。設定も何もあった物ではない。主人公キョンとヒロイン涼宮ハルヒはこの話ではほとんど登場しない。キョンはナレーションという形では最初から出てはいるが一人称の立ち位置にいるために画面には出てこない。
シリーズの最初に虚構内虚構となる作中作を持ってきたわけである。
しかし、それはシリーズ第一話にとどまらない。その後の本編的な話でも、最後のスタッフロールに涼宮ハルヒなりSOS団なりの言葉が出てくる。むろん大人の事情で何らかの名前をつけなければならないから、せっかくだから作品と関連する名前にしてしまおうという軽い意図なのかも知れない*5。しかし、虚構と現実の線引きを曖昧にしようと言う作り手の意図、遊び心といってもいいかもしれないが、がそこにはあるのかもしれないと思うんだ。キョンや涼宮ハルヒが存在する世界は俺たちが暮らしているこの世界なんだという感覚を持つように演出しようとしているのではないか、そんな印象を持つことだってできるんだ。。
そのあたりがこれから書く感想を持つに至るきっかけになっているのかもしれない。
この小説では涼宮ハルヒという少女が、考えたことを現実化する能力を持っているという設定が基本となっている。そして、自分の作った世界が自分にとって気に入らない物だったら、ハルヒ自身はそうとは気づかないままに他の登場人物たちが実体化している作中世界をぶちこわし、新しい別の世界を創造することも可能であるのではないかと周りにいる登場人物たちはおそれを持って想像している。そして物語の終盤では実際今の作中世界が破壊される危機を迎えている。
この小説でえがかれている世界は涼宮ハルヒという少女の心が作り出した世界である。こういう設定もどこかで読んだことがあるような気もしていた*6。
とにかく、この作品は一種の虚構内虚構と言える入れ子構造を持っている。その入れ子構造を際だたせるためにテレビアニメでは作中作というわかりやすい虚構内虚構を一発目に持ってきていて、さらにスタッフロールにも工夫をしているんだと思う。
俺は、この「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品が持つ虚構構造は普通の物語とひと味違うと思っている。
表にしてみるとこんな感じになる。
備考 | |
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レベル5 | 作中作 |
レベル4 | この小説でえがかれている世界 |
レベル3 | 考えていることを現実にする力を持つ少女、涼宮ハルヒの世界 |
レベル2 | 考えていることを現実にする力を持つ少女、涼宮ハルヒを想像した何者かがいる世界 |
レベル1 | 作者や俺たちが住む現実世界 |
レベル5はまぁさっき書いたアニメの第一話のことだ。『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説にはまだ出てこない話。レベル2はどこにも出てこない。たぶんシリーズが完結してもでてこない。俺が頭の中で考えたレベル。
俺が重要視しているのは「レベル2」の存在である。でも重要視しているのに根拠は薄弱である。このレベルを考えるとこの小説がわかりやすくなる。逆にこのレベルを考えないと作中世界に取り込まれてしまうという感覚がある。それだけが根拠である。
俺も含めて、この作品でえがかれている世界の矛盾を指摘しようとする人は多い。レベル4の世界は涼宮ハルヒが想像した世界である。にも関わらず、なぜ彼女は不機嫌だったのか。不機嫌ならばぶっ壊されるはずじゃねーか。誰だってそう思う。
まっ、話は変わるけど、涼宮ハルヒが世界をぶっ壊すきっかけになるのは彼女が不機嫌になることではなく、彼女が憂鬱になることっていう設定じゃないかと俺は思っている。憂鬱と不機嫌との線引きなんてまさに主観的な感覚なんだが、この小説の最後に発生するエピソードのきっかけになる事件が憂鬱の引き金になっているんだろう。そういう意味でキョンという主人公は、レベル4にいながらにして、実は涼宮ハルヒのコントロール下に無いという微妙、かつ唯一のポジションを取っている登場人物なのかなと思ったりもする。ハルヒがコントロールできないから逆に特別な人物として認識されているんだろうな。はやりの言葉で言えば、キョンはハルヒから見てツンデレなわけなんじゃないの?*7
他の主要登場人物は、宇宙人がいて欲しいというハルヒの願いによって生み出された宇宙人だったり、未来人がいて欲しいというハルヒの願いによ(略、超能力者がいて欲し(略、だったりする。
俺が考えたレベルはツリー構造になっている。レベル1の現実世界はたぶん一つしかない。俺自身そう思いたい。並行世界にいる俺のことなんか考えたらおちおち眠ってもいられない。しかし、それ以降のレベルは複数ある。レベル4の住民、主人公キョンに与えられた能力はハルヒと一緒にハルヒが創造した別のレベル4の世界に行ける能力である。
この小説で面白いのは、レベル4にいる人物たちの一部が自分たちの住む世界がレベル4だということは何となく認識しているにも関わらず、レベル4にいながら無意識にレベル3を内包していると思われる涼宮ハルヒという少女のご機嫌をとって、今自分たちの存在が涼宮ハルヒによって認められているレベル4の世界を守ろうとしているところにある。
作中人物たちが自分自身が作中人物であることを意識している、筒井康隆作品によく見られるような手法、おそらくこれはメタフィクションってやつの一種なのかなぁ、を使っているけれど、それが読者には明示されない入れ子関係になっているので、一見単純に見えるけれどよくよく考えると非常にややこしいことになっているんだ。
そうそう、レベル2が重要だと書いていて全然その話を書いていないような気がする。
俺の感覚では、レベル3の涼宮ハルヒ、レベル4の作中世界の設定を考えてしまうと、その時点でこの『涼宮ハルヒの憂鬱』という物語に取り込まれてしまうのではないかという危険性を感じている。
特に、この作品の設定を批判的に論じている人にとってははなはだ不本意なことであると思うけど、この作品の設定、それはレベル3レベル4の物語世界の設定と言うことになる、を論じている時点ですでに作者が生み出した、この作品の持つ虚構の世界に取り込まれちまっていることになると思ってるんだ。
他の作品と『涼宮ハルヒの憂鬱』を並べて語るためにはレベル2を考えなければいけない。作中世界(レベル4)の創造主でありレベル3にいる「涼宮ハルヒ」という少女を創造した虚構の人物の存在を考えないとうまくいかないんじゃないか。この小説の作者、谷川流氏の他の著作を読んでいないので想像でしかないんだけど*8、この作者の場合は、少なくとも涼宮ハルヒシリーズと他の作品シリーズとの間では登場人物の交流がないんじゃないかと思っている。交流しようにも虚構レベルが違うからどうしてもうまくいかないのではなかろうか?
創造主「涼宮ハルヒ」を創造した虚構の人物がいるという書き方をすると、なるほど、レベル2にいるのは、美少女との出会いを妄想する主人公「キョン」、あるいは現実世界ではちっとも美少女でもなく行動的でもない少女「涼宮ハルヒ」が存在する可能性のことを言っているのかと思われるかもしれない。
でも俺はそうは思って無くてレベル3の涼宮ハルヒという存在がもしこの作中で登場する誰か、たとえばキョンとかハルヒの想像、妄想であり、それをレベル2と言うのなら、レベル1.5のレベルで作中に登場しない作者が創造した人物を追加することになってしまうことになる。
つまり作中人物でもなく作者でもない人物の存在、作中でまったくえがかれない何者かの存在を考えないとまずいんじゃねーかと感じている。そう考えておかないと、気づいたら作者の術中にはまり自分の意識が虚構の世界の中に埋没してしまうという危険性があるんじゃねーかと考えている。
何でそう思うの?と思われる向きもあるだろう。その問いには「そう思うのだからしょうがない」と答えるしかない。この作品にはそういう魅力というか特性がある。素直に読んでしまうとあたかも自分自身が作中でえがかれている世界に存在しているかのような錯覚を覚えるんだ*9。
この物語に危険性を感じるというのは、読んではいけない、あるいは読まない方がいいという意味じゃない。虚構に取り込まれるか取り込まれないか、そういうぎりぎりの勝負を楽しめるようないい作品だという意味だ。
だって、危なくないことってつまらないでしょう?危ないってことは面白いって事なんだよ。
読んだことが無くて、読む気にもなれない人もとりあえず読んでみるといいと思う。この作品は危険だ。作中の表現やら設定やらに嫌悪感を抱いたとしても、その時点で虚構に取り込まれてしまっていることになってしまうんだ。
結論を書こう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は、5レベルにも渡る非常に深い階層構造で成り立っている。読者は当初その階層に気づかずに読むことになるので、極めて自然に作者が構築した架空の世界(レベル3)に取り込まれたような錯覚を持つことができる。
その手法だけを持ってしても、21世紀になってから俺が読んだ小説の中で『涼宮ハルヒの憂鬱』が最も優れた小説なのではないかと思っている。
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この文章は2006/7/2にアップロードした記事に加筆修正をしたものです。元記事のエンディングである結論部分が読み返してみるとやたらと不必要に難しく書いていたので全面的に変更してみました。言いたいことは同じなのですが文字にすると全然違う印象を持ちますね。面白い。
この記事を書いた後「涼宮ハルヒシリーズ」を読み進み、その過程でこのシリーズのエンディングを想像しました。おそらくは当たらずとも遠からずなのではないかなぁと今のところ思っています。
テレビアニメーションが再放送されると言うことなのでこの機会にもう一度アップロードしてみました。今回はちゃんと録画して見てみることにします。
蛇足ですが、加筆修正しながら思ったことを書きます。
「『涼宮ハルヒの憂鬱』その危険な世界観」
うーん……。我ながらよく思い付いたな、このタイトル。毎回毎回こんなのが付けられればいいんだけれどなぁ。タイトルで釣るだけじゃなくて内容も若干タイトルにすりあわせたんだよな、この時は。読み返してみると内容とタイトルがぴったり合っていて自分でもびっくりしてしまった。思い付きで付けたとはとても思えない(笑)。
この記事は私にとっては非常に思い出深い記事です。この記事がきっかけとなって多くの人がこのサイトの記事を読みに来るようになったんだろうなぁと今では思っています。
いわゆる個人ニュースサイトで紹介されたデビューでもあり、そして、改めて読み返してみると私自身の読書感想文デビュー作なのかなとも思えます。この前にも本の感想は書いていましたが、こういうスタイルが確立したのはこの記事が最初ですね。ハヤテのはちょっと違う。あれは結論が出ていない。結論が出るまでにはこの後半年ちょっと必要でした。
結果的に「読書感想文」というカテゴリでも一定の位置を保つことができるようになったのはこの記事を書いたからだと思われます。
この記事を書いたのは2006年ですが、昨年2008年になっても年間2000人くらいの人が読みに来て下さる、このサイトのレベルとしては人気記事の一角を占めるポジションを維持しています。未だにこの記事以上にうまいことタイトルを付けることができた記事は無いし、この記事以上に内容がしっかりしていると自分で思える記事もほとんどないんですよねぇ。2007/2/21のハヤテ感想くらいかなぁ。あれは思い入れが強すぎて冷静に評価ができないからちょっと別。いずれにしろ、この記事は自分にとって「超えられない壁」になりつつあります。
今回アニメが再放送されるにあたり、もう一度この記事の内容を自分自身で思い起こしてみたい、そして、うまくいけばこの機会に再度いろいろな人に読んでもらい、賛同、非難、それぞれのご意見をいただいてみたい、そんなことを思っております。
記事内容について1点。
5レベルにもわたる入れ子構造ってのは初出時に「ちょっとやりすぎたか」とも思ったのですが、今、改めて読み返すとやっぱりこう考えるのが自然だなぁと思えますね。
当時の記事へのコメントに
レベル2は内包された読者。
ってのをいただいたんですが、考えてみるとそれだとうまく行かないですね。負けたことになります。読者はあくまでも作者と同列のレベル1にいなければ作中に取り込まれたことになっちゃうんじゃないかな?この記事で狙っているのは、この作品の構造を解明することによってこの作品でえがかれている架空の世界に取り込まれないようにすることなんですよね。そのことに意味があるかと問われると答えはありません。そういうことがしたかったとしか言いようがない。この小説を読んだ時に持った何とも言えない違和感を説明したかったんですよ。この記事を書いたきっかけは『ハヤテのごとく!』と一緒。あれも面白いけど何で面白いのかよくわからなかったので感想を書き始めました。ハヤテは結論が出るまで1年半くらいかかったけどハルヒは数日でした。かかった時間はずいぶん短かったけど、ハルヒでこれを経験したからその後ハヤテについての結論も出すことができたのかも知れませんね。
最後に、上述のようにこの記事を書くきっかけになったってのがあるので、この後書いた『ハヤテのごとく!』の構造論との関連について書きます。『涼宮ハルヒの憂鬱』で用いられた手法と『ハヤテのごとく!』で現在進行形で用いられている手法は、その目的も、その結果も全く違います。しかし、両方とも少なくとも私自身にとっては初めて触れる物でした。どちらが優れているとかそういうことはないです。
しかし、両者の手法には大きな違いがあると感じています。「ハルヒ」の手法はこれから産み出される他の作品へ応用することは難しいと思います。もしそれをやっても「ハルヒの亜流」としてみなされれてしまうのではないかと。逆に「ハヤテ」の手法は他の作品にも応用が利くと私は思っています。
両者とも優れた手法だと思うのですが、「ハヤテ」が持っているスーパーハイブリッド構造の方が今後発表される作品への影響は強いのではないかと私は思っています。
関連記事
- カテゴリ 涼宮ハルヒシリーズ
- 2007/2/21 「スーパーハイブリッドコミック『ハヤテのごとく!』」(暫定版)
*1:むろん初出時の最近ですよ。今となっては遠い昔……
*2:最近イラストも大事だな、と思うようになってきました……
*3:初出時はここに慣れないあらすじを書きました……。読みづらいしへたくそだし意味無いので割愛
*5:その後いろいろなアニメを見たらみんなそういうことをやっているんですね。恥ずかしいこと書いていたみたいだけれどそのままにしました。この後の論旨には影響ないですし。
*6:のだが、見つけてしまった。・2006/7/7 「果てしなき多元宇宙」について 筒井康隆作品です。そういえばこんなのあったなぁ。
*7:流行りはたぶん終わりましたが初出時は流行っていると思っていました……
*8:初出後読みましたが全部読んだわけではないので状況は変わっていません
*9:このころから私自身が作品に感情移入することになれていないという弱点を意識していました。少しずつ改善しているかな?『とらドラ!』でちゃんと感動できたし。